| 〜 ten years after 〜 10年後の日常
 
 † daddy †
 
 
 
 
 不二の形良い唇が軽く開いて細めのストローを銜えてちゅっと小さな音を立てて吸い上げればストローの先の液体が重力に反して上昇し、たちまち不二の口内に流れ込む。そしてごくりという効果音と共に不二の喉仏が上下をして再び液体が重力に従った事を証明する。不二のひとつひとつの動作が絵になっていた。
 「どうしたの英二?」
 「え?」
 「さっきからじーっと僕の事見ているけど何か付いてる?」
 無意識のうちに俺はずっと不二の唇を見ていた。気にしないようにしてたけどどうしても気にしてしまう酔った上で冗談での頬にされたキス。
 結局額ににマジックで「肉」と落書きされていた事に気が行ってしまって「頬にちゅー」のことはいつの間にやらどこかへ飛んでいってしまったけど俺は時々ふとしたことで思い出し一人で悶々と照れたり無理矢理平常心を保とうとしたりしてあたふたしている。
 あくまでも酔った上での冗談での出来事なのになんでこんなに気になるんだろう。
 それに俺と不二は友達同士なんだ。
 
 
 「あ、いや朝から黒酢なんてよく飲めるなあなんて思ったんだよ。お前酸っぱいものだめじゃん」
 俺は咄嗟にもっともらしい言い訳をする。
 「これは蜂蜜入りだから結構まろやかなんだよね。酢は苦手だけど体にいいからね。薬だと思えば飲めるもんだよ。今日は朝から営業ミーティングがあるから気合入れようと思ってね。これ結構いけるよ。英二も一口飲んでみたら」
 不二は手に持っている小さな紙パックの黒酢を俺に差し出した。
 「どれどれ」
 ひと口飲んでみる。たしかに蜂蜜が酢を押さえていて確かに酸っぱいものが苦手な人でも飲めるように上手い具合にブレンドされている。
 再びストローを銜えた不二を見てふと思う。
 今のって間接キスじゃん!!!!!
 俺は急に恥ずかしくなって口元を手で押さえた。
 「どうしたの英二?やっぱこういうの苦手?」
 不二が不思議そうな顔をして覗き込んできた。今まで何も思わなかったけどやっぱり不二の顔って綺麗だ。そんな風に覗き込まれるとまたちゅーされそうな気がしてドキドキしてしまう。
 「あ、いっいや、後から酸っぱいのがきた・・・後味がやっぱり酢だ。俺苦手かも」
 「ふ〜ん、好き嫌いがほとんどない英二がそんな顔するなんてめずらしいや」
 俺はなんとか黒酢にやられましたという演技をしながら本来の食事を続ける。
 そういや学生時代は部活の時にミネラルウォーターを皆で回し飲みとかしてたじゃん。なんで今更女子中学生みたくドキドキしなきゃいけないんだよ。
 不二はただの同居人で大切な友達。
 不二がこんな仕草をするのは過去に裕太君にしていた態度であくまでも“お兄ちゃん体質”によるもの。別に俺に変な意味を持ってやっているわけじゃない。
 俺は自分に無理矢理言い聞かせて脱線しそうになる思考回路を修復させてみる。
 
 
 
 
 
 「英二、ちょっとこれ見て」
 食事をしながら新聞を読んでいた不二が俺にスポーツ欄の小さな記事を俺に見せた。それは先日横浜で行われた菓子メーカー主催のフューチャーズの大会の結果だった。
 「これって越前と手塚が出場するって言ってたやつだっけ?」
 「そうだよ。決勝の記録を見てみて」
 優勝者は手塚だった。記録を見てみると決勝では越前と対戦する事になってたのだが決勝直前に越前が体調不良で棄権をして手塚が優勝したらしい。
 「越前が急性胃痙攣起こしたんだって、余程緊張していたのかなあ」
 「何言ってるの英二、あの越前が試合前のプレッシャーや緊張とかすると思う?」
 「思わない・・・」
 「何かあったのかなあ」
 さすが不二だ。洞察力が鋭い。言われてみれば中学一年の分際で当時中学テニス界ナンバー1の王者立海大付属の真田に堂々と立ち向かったしそれにその真田になんと勝ってしまった。そんな越前がかつての先輩と直接対決するってだけで胃痙攣起こしたりするはずがない。
 「今度お見舞いに行こっか?」
 
 
 
 
 
 
 
 * * * * * * * * * *
 
 
 
 
 乾がリョーマのベッド脇で何やらごそごそとしている音が聞こえるがリョーマには目を開ける力もなくただベッドでぐったりとしたまま物音を聞いていた。
 リョーマが病院へ運ばれた夜、リョーマは田崎からリョーマの両親が次の日に来る事を伝えられた。さすがにリョーマの両親には世間に流したような嘘は言えずに真実を伝えたのだ。
 そして次の日である今、リョーマの体調は悪化してベッドに沈んだままである。
 しばらくして病室に数人入ってくる音が聞こえた。
 「乾君、越前君のご両親が来られたよ」
 「乾です。こんにちわ」
 「うちのリョーマがお世話になっております」
 「越前君の調子はどうだい?」
 「・・・それが昨日ここに運ばれてきて目が覚めたときはまだ神経が高ぶっていたのか気丈に話をしてました。けど今日は朝からぐったりした感じで朝食のお粥を少し食べただけで吐いてしまってそれ以降ずっと寝ています」
 リョーマの母親がベッドに近づきリョーマの額にやさしく触れる。その手はかすかに震えていた。
 「皆様には色々と助けていただいて本当に感謝しております。ただ悔しいのがこの事件を公に出来なかったことです。この子の将来の為、世間体の為にはいた仕方ないことですが犯人を裁くためなら私も法廷に立って何かしらこの子の力になってやりたかった・・・」
 リョーマの母親の倫子はアメリカで弁護士の勉強をしている時に越前南次郎と出会ってまもなく結婚してリョーマが生まれた。日本に戻ってからも倫子は弁護士として働いている。
 体に力が入らずにぐったりしながらもリョーマは母の言葉を聞いていた。
 「・・・母さん・・・・・・」
 「リョーマ、起きたの!」
 「だ、大丈夫・・・だから」
 「大丈夫ってそんな弱々しい声で大丈夫なわけないでしょう」
 「じゃあ私共はしばらく外にいますので」
 リョーマの両親に気遣ってか田崎と乾は病室から出た。
 
 
 倫子はしきりにリョーマにあれこれ話しかけている。着替え一式持ってきたこと。今後は乾と交代でリョーマに付き添うこと等。その度にリョーマは力なくただ「ああ」とか「うん」とか生返事をするのみだった。
 南次郎は病室内をぐるりと眺めた。“設備の整ったいい病院じゃねーの”
 「おい母さん、俺喉渇いたわ。おいリョーマ、お前もなんか飲むか?」
 「・・・いらない」
 「そうか、じゃあ母さん缶コーヒー買ってきてくれないか」
 「ハイハイ」
 
 
 倫子が出て行った病室でリョーマと二人っきりになった南次郎はリョーマの青白い顔を改めて見下ろした。
 「病院で点滴付けて寝ているその姿みっともねえな」
 「・・・・・・悪かったな」
 「お前らしくない」
 「・・・フン・・・」
 「お前こんなところでリタイヤする気は毛頭ないのだろう?」
 「・・・そのつもりだけど」
 「ならば這いあがれ、上を目指すものにはあらゆる試練が待ってるんだ。何度叩き落されても何度でも這いあがれリョーマ」
 リョーマはずっと閉じていた目をゆっくりと開いて南次郎を見上げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 * * * * * * * * * *
 
 
 
 「花でいいかな」
 不二が不意に花屋の前で立ち止まった。
 「いいんじゃない。乾が“急性胃痙攣”って言い張るんだから食べ物を持っていけないじゃん」
 
 
 俺と不二は越前の入院している病院にお見舞いに行こうとしている。
 数日前、不二が乾に電話を入れたのだ。
 
 「新聞で見たよ。越前が急性胃痙攣を起こして決勝を棄権したんだって。どうだい具合は?」
 その後色々やりとりをして不二が乾に「越前がプレッシャーなんかに負ける筈ないから本当は胃痙攣じゃないんじゃないのか」と問い詰めてたけど乾は最後まで胃痙攣だと言い張った。
 乾の様子も少しおかしかったと不二は言っていた。入院していると聞いたので見舞いに行くと申し出たら今度の日曜日は乾が付き添う番だからと言ってきた。
 
 
 病院に入ってエレベータに乗り込みあらかじめ聞いていた病室の部屋番号の階のボタンを押す。寝台用ではなく一般用のエレベータだったのでその狭い空間に消毒薬やあらゆる薬品の匂いが染み付いていて病院特有の独特の雰囲気に飲み込まれそうになる。
 俺はこの病院で年に一度定期健康診断を受けているけど行くのは最上階の検診センターのみで途中にある病室に行くのは初めてだった。
 「あれ?」
 エレベータを降りるとそこに見たことのある女性が立っていた。
 「竜崎さんも越前のお見舞いに来たんだ」
 「ええ」
 しかし竜崎さんは俯いていて元気がなかった。
 「越前、具合悪そうだったの?」
 竜崎さんは黙って頷いた。
 「リョーマ君、“結構良くなってきた”って言うんだけど顔色悪いし脂汗かいているんです。乾さんが熱測ってみたら38度もあって・・・なのにまだ“大丈夫”だなんて言うんです。私もう見てられなくて、無理しているのがバレバレなんです。だから用があるからと言って出てきちゃいました」
 「それはきっと越前が竜崎さんに心配かけたくなくて気丈に振舞っているんだよ。なんだか僕達タイミングの悪い時に来てしまったみたいだね。この花を乾に渡してすぐ帰ることにするよ」
 不二は優しく竜崎さんに言った。
 越前の病室のドアを軽くノックしてなるたけ大きな音を立てないようにドアをあけて静かに中に入った。案の定越前は寝ていてその表情はなんだか苦しそうだった。
 「さっき竜崎さんに会って聞いたよ。かなり具合が悪そうだね。やっぱり越前も自分の彼女の前ではつい気丈に振舞ってしまうのかな」
 俺は乾にお見舞いの花束を手渡した。乾は器用に花瓶に生けながら静かに言った。
 「早く治そうと言う気持ちはいいのだが気持ちばかりが先走って体が追いついていないんだ。体の方は日にち薬のようなものだから焦っても仕方がないのに・・・」
 「急性胃痙攣ってそんなに時間のかかるものなのか」
 「・・・・・・ここで見たこと聞いたことは口外しないでくれ、そして急性胃痙攣なんだ・・・頼むからそういうことにしてくれ」
 生けたての花瓶をサイドテーブルに置く乾の声が微かに震えている。こちらに背中を向けているので表情はわからない。
 「やっぱり本当は胃痙攣じゃないんだね」
 「頼むからこれ以上聞かないでくれ・・・」
 
 こんな乾は初めて見た。悔しそうな辛そうなそしてまるで自分を責めているかのようにも見える。それに青白い顔で横たわり脂汗をかいて苦しそうにしている越前も見るに耐えられなかった。いつも強気で挑戦的な眼差しで見つめてくるちょっとふてぶてしい後輩の姿は微塵もなかった。
 「帰ろう、英二」
 「あ、ああ」
 だんだん空気が重くなってきた時に不二に言われてまさに救いの手だった。これ以上ここには居られない様な雰囲気だ。
 「越前が具合悪い時に邪魔したね。越前が目を覚ましたらよろしくね」
 そうして俺たちは病室を後にした。
 しかし不二は病室を出る瞬間中を振り返って乾に向かってこう言った。
 「越前が気力だけでもあって良かったよ。“病は気から”って言うし。治そうとする気持ちがあるなら今は無理でも必ず良くなるよ。僕は越前が復活して再びコートに立てるのを楽しみにしてるから」
 いい言葉だった。
 俺も越前がまたテニスする日を楽しみに待っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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