〜 ten years after 〜 10年後の日常
† Necessary †
その日俺はそんなに切羽詰った仕事の予定もなかったので定時に会社を出て不二とタカさんの寿司屋に行く予定だった。タカさんは高等部に進学してからはテニスをやめて板前修業に入った。大学部には進学せずに店に入るって言ってたけどタカさんの親父さんが「板前の腕でなく商売の知識も必要だ」と言ったとかで結局大学商学部に進学して商売の勉強をした。
大学を卒業してすぐに店に行ったことあるけどここのところ仕事が忙しくなってなかなかご無沙汰していて不二にいたっては青学を卒業してから全くかわむら寿司に行けていないということで今日行く事にしたんだ。けどタカさんには言っていない。突然訪問してびっくりさせてやるんだ。
俺は驚いた顔の旧友を想像しながら次に予定している訪問先の書類を鞄に詰め込んだ。今日の訪問は後はこの1件で終わり。後は会社に戻ってきて色々と書類を書き上げて終わり、そしたらいよいよかわむら寿司だ。
この時俺はこれから自分がとんでもない事に巻き込まれてタカさんの店に行けなくなるなんてこれっぽっちも思っていなかった。
* * * * * * * * * *
訪問先のお婆さんは土地持ちで一人暮らしということもあって悠々自適な生活をしている。
俺が担当するようになってもう1年くらいになるのですっかり馴染んでしまって一人暮らしということもあって俺が訪問すると嬉しそうな顔をして色々と話をしてくれる。最初は持っている土地や借家の家賃収入のやりくりのこと等の真面目な話ばっかりだったけどなまじ土地を持っている所為で一人息子と行き違いが生じて親子の縁を切ってしまった事、そして最近は糖尿病にかかって体調が思わしくない事まで話してくれた。お金があるからと言って必ずしも幸せだとは限らないということを俺はこのお婆さんから学んだ。
だとしたら『幸せ』って何だろう?俺は今は憲法で言うところの“健康で文化的な生活”を送れている。こうやって企業に勤めているから日々の生活には困らないし病気でもない。兄弟は今は上の兄と姉が結婚して家を出て二番目の兄は大阪で働いていてすぐ上の美香姉だけが実家で両親と祖父母と居てそれぞれバラバラに生活しているけど仲が悪いわけでもなくありがたいことに病人もいない。そういや不二も俺の事“同居人というよりもう家族だよ”って言ってくれた。こうやって家族皆が元気でごく普通の生活が出来ている事が有難い事だと思わなけりゃいけないよな。そういや不二だって由美子姉さんが結婚して家を出て裕太君が京都で勤めているので家族がバラバラだけど仲違いしているなんて話を聞いたこともない。“連絡がないというのは元気で普通に生活しているということ”だとか“元気で留守がいい”なんていうのはこのことかもしれない。
訪問先の玄関の呼び出しブザーを何度押しても応答がなかった。
時間を間違えたかなと思って手帳を見てみると約束の時間通り。
それに昨日のお昼に電話して今日のこの時間にって約束したんだ。
おかしいな。庭にでも出ていて聞こえていないのかな?
俺は庭の方の様子を伺った。けど人の気配はなし。
「あの〜、竜野さん宅に何か御用ですか?」
不意に後ろから声を掛けられて驚いて振り返ると40歳前後の見知らぬ女性が立っていた。
「3時に訪問の約束をしていたのですが竜野さんがいらっしゃらないみたいでして・・・。あ、私は○○信用金庫S支店の菊丸といいます」
どうやら俺は不審者と間違われたらしい。あわてて女性に名刺を差し出して身の潔白を証明する。
「信金さんでしたか、これは失礼いたしました。私はこの通りをまっすぐ行ったところの老人ホームさくら苑の職員の長田です。さくら苑は地域の見守り推進委員をやっていまして町内の一人暮らしのお年寄りのお宅に定期的に訪問して様子を伺っているんです」
さくら苑の長田と名乗った女性も鞄から名刺を取り出した。名称のとおり桜の花びらの絵柄の付いたきれいな名刺だった。よく見るとこの女性が着ている薄紅色の上着の左胸にも“さくら苑”って刺繍が入っている。
「へえ〜そんなこともやっているんですね。知りませんでした。じゃあ竜野さんみたいな一人暮らしの方にとっては心強いですね。でも龍野さん留守みたいですよ」
「でも菊丸さんは訪問の約束をしていたのでしょう?」
「ええ」
「今までにこんなことってありました?約束してたのに居なかったって?」
「そういえばないです。毎月25日前後に訪問しているのですがいつも前日に何時に伺うって確認の電話を入れているんです。それなのに留守だなんて・・・」
長田さんに言われて俺は少々不安になった。
「どこかに出掛けていて時間が掛かってしまって帰れなくなったっていうのならいいのですが一人暮らしのお年寄りによくあることが家の中で倒れているというケースです。菊丸さん、一度会社に電話をして竜野さんからキャンセルか何かの連絡が入っていないか確認してもらえませんか?それで連絡がなかったら少々手荒ですけれども家の中に入ってみましょう」
俺は言われたとおり携帯を取り出して会社に龍野さんから何か連絡がなかったか訊ねてみた。しかし支店の方には龍野さんからの連絡は一切入っていなかった。
「菊丸さん、家の中に入ってみましょう。玄関は鍵がかかっているから庭に入ってどこか開いている窓を探しましょう」
長田さんはそう言って勝手に庭に入ってしまった。なんか手馴れている感じ、そして落ち着いた物言い。俺は自分の顧客が倒れているかもしれないって聞いただけでドキドキしているのに長田さんは一切慌てている様子ではない。
「あのー、長田さん・・・」
「何?」
「こんな・・・倒れているかもしれないってよくあることですか?」
「あるから見守り推進委員があるんですよ」
「あ、そうか・・・」
俺たちは片っ端から窓を調べた結果風呂場の窓が開いているのを見つけた。
「ゴミ箱か何か台になるものを持ってくれば入れそうね」
俺は勝手口の傍に置いてあったゴミ箱のポリバケツを持ってきて風呂場の窓の下に置いた。
「菊丸さん、入るわよ」
長田さんはゴミ箱に乗って風呂場の窓から中に入って行った。
『入るわよ』って俺もかよ!
俺はこんな不法侵入みたいなことしたくないけど通りかかった船だ、いや乗りかかった船だったっけ?そんなことを考えながら風呂場の窓から家の中に入った。
「竜野さーん、いますかー?」
長田さんと風呂場から廊下に出て俺たちは大声で叫んだ。
しかし何の反応もなし。
廊下を歩いているうちに異臭が鼻をついた。
「何か臭い・・・」
突然長田さんが走り出して居間らしき襖戸を開けた。
「ウッ・・・」
長田さんは口に手を当てて固まっている。俺は長田さんの後ろから部屋を覗き込むと
そこは血の海だった・・・
血溜まりに倒れているのは竜野さんらしき老婆。
左手首の皮膚がぱっくり割れて血が流れていて傍に血まみれの剃刀が落ちてあった。
恐怖映画でこんなシーンはよく見るけど実際に見ると生々しくてあまりの光景に俺は顔を背けた。
「菊丸さん、家中の窓を全開して来て!」
我に返った長田さんが叫んだ。確かに異臭で立ってられない。俺は片っ端から窓を開けて家の中に風を通した。
「竜野さんまだ生きてる!救急車を呼んで!」
隣の部屋の窓を開けていたら長田さんの叫び声が聞こえた。
「分かりました!」
俺は携帯を取り出した。そういえば救急車を呼ぶのって初めてだ。
「携帯じゃなくてここの家の電話から掛けてっ!発信地が消防署にすぐ分かるからっ!」
発信地?あ、そうか消防署にはどこから掛けてきたか分かるんだ。俺は廊下にある電話の前に立って受話器を持ち上げた。落ち着かなきゃいけない。消防署に慌てて通報した人が『家が燃えてるよ〜』としか叫ばずに住所を言わないっていうのを聞いたことがある。
落ち着いて
落ち着いて
救急車は119だ117じゃないんだぞ
落ち着いて
俺は119をプッシュした。
「はい、○○消防署です」
俺は一瞬混乱した。救急車ばかり考えながら電話したので『消防署です』と言われて消防車を呼ぶのだっけ?と思いすぐさま救急車は消防署にいるものだと考え直す。
「あの〜ここN町なんですけど救急車ってN町まで来てくれるもんですかね?」
「救急車はどこへでも行きます。どうされましたか?」
ああそうだ。タクシー呼んでいるんじゃないんだ。救急車なんだからどこでも来るって!
「お婆さんが血まみれで倒れているのです」
「血まみれ?交通事故ですか?」
「いえ剃刀で手首を切っているんです。まだ息はあります」
「今電話を掛けているあなたは誰ですか?」
「○○信用金庫の者です。今日訪問の約束をしていて来たら留守みたいだったのですが、同時にやって来た老人ホームさくら苑の職員さんと様子がおかしいってことで家の中に入ったらこういう事態でして・・・今はさくら苑の方が介抱しています」
「そのさくら苑の人に代わってもらえませんか?」
「長田さーん、救急の人が長田さんに電話代わってほしいって」
俺は居間の中にいる長田さんを呼んで受話器を渡した。長田さんはいつこんなことがあってもいいように日頃から持ち歩いているのだろうか使い捨てのゴム手袋をはめていてその手袋はすでに真っ赤に染まっていた。
長田さんは救急隊員にてきぱきと竜野さんの状況を説明してここの住所と電話番号を言った。すると救急隊員に「一軒家なのかマンションなのか」と聞かれたらしく一軒家ですと答えて玄関先の道路が救急車が停車できるだけの十分な広さがあることを伝えた。
救急車を呼ぶ手配を済ませた長田さんはさくら苑に電話をして状況を説明して今すぐ出てくられそうな職員に応援を頼んだ。
さすがプロだ。こんな惨状なのに慌てず落ち着いていて的確な動きをしている。
俺は恐る恐る居間の入り口から中を伺った。長田さんが居間の窓を全開してくれているにも関わらず相変らず異臭が酷くて俺はハンカチを取り出して鼻と口を押さえた。
竜野さんは長田さんによって左腕をハンカチで縛られて止血されていた。けどあまりの光景に頭がぼうっとする。
「さくら苑にも応援頼んだけどとりあえず雑巾と漂白液を探さなきゃね」
長田さんが言うにはこの異臭の原因は竜野さんが手首を切ってから今までの間に流れ出た血と失禁が混じった事。そして竜野さんが糖尿病だったので余計に異臭になってしまったということだった。
俺は血と失禁でベタベタになっている居間にはとても入れずにただ呆然と廊下で長田さんがてきぱきとどこかから雑巾を持ってきて床を拭いているのを黙って見ていた。
息があったから良かったものの何故竜野さんは手首を切ってしまう様なことをしたのかと考えてみる。しかしぼうっとする頭では何も思いつかず次第に気持ち悪くなって廊下にしゃがみこんだ。
こんな中で竜野さんを助けている長田さんって凄い人だ。俺一人だったらとてもこんなこと出来ない。俺は長田さんの背中を見ているうちに胸が苦しくなって腹の奥が熱くなってきた。視界に広がる血の海と鼻に付く錆びた鉄のような血の臭いとずっと掃除をしていないような公園の公衆便所のアンモニア臭よりももっと表現のしようのない悪臭に耐えられず俺はよろよろと立ち上がって隣の台所の流しに湧き上がってきた不快感を吐き出した。口の中に広がる胃酸が気持ち悪くて水を流して口をすすぐ。
「菊丸さん。大丈夫?」
傍にやって来たはずの長田さんの声が遠くで聞こえる。
足に力が入らなくなって膝が地に付いた感触がした時、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。
* * * * * * * * * *
気が付いたら病院だった。
気持ち悪くなって気を失ってしまったので俺まで竜野さんと一緒に救急車で運ばれたらしい。
「あら菊丸さん、気が付いた?」
傍に長田さんが座っていた。俺が寝かされていたのは病室ではなくて処置室みたいな部屋で大きな部屋にいくつものベッドが並べられていてカーテンで仕切られている。
「気分はどうですか?」
看護士がやってきた。
「あ、普通です」
正直まだ頭がぼーっとしていたけど起きれない事はない。
「竜野さんが目を覚まされましたけどどうします?お会いしますか?」
看護士が俺達に言った。
俺達は看護士に案内されて竜野さんの病室に向かった。
俺たちが病室に入ると竜野さんはわあっと泣き出した。
「長田さん、菊丸君、ごめんね、ごめんね・・・」
泣きながらずっと「ごめんね」と謝る竜野さんに俺は心が痛んだ。
「竜野さん、俺びっくりしたよ・・・長田さんがいたから何とかなったけど俺一人だったら竜野さんを死なせちゃってるよ。俺、竜野さんが死んじゃったら悲しいよ」
公私混同はいけないことだけど俺は孫のように接してくれる竜野さんを気に入っていた。竜野さんが死んでしまったら自分の祖母ちゃんが死んでしまったような気分になるだろう。
「ほら、菊丸さんもこう言ってるしもうこんな馬鹿なことしないって私達に約束してくれますか」
長田さんがベッドの傍に跪いて竜野さんに言った。
竜野さんはただ泣きながらうんうんと頷いた。
竜野さんが手首を切ったのは昨晩遅くだった。
断絶状態の息子から電話があってお金の事で大喧嘩したこと、そしてその日たまたま病院へ行って検査結果が悪かった事もあって将来を悲観して咄嗟に剃刀で手首を切ってしまったとのことだった。
救急車が来たのとほぼ同時にさくら苑から数名の職員がやってきて竜野さんが運ばれた後、漂白剤で床を磨いて血をほぼ拭き取ったらしい。
おまけに長田さんは病院に着いてからすぐに俺の勤める支店に電話をして俺が大変な目に遭ったということを説明してくれたそうだ。
何から何まで細やかな配慮で素晴らしい人なんだろう。
* * * * * * * * * *
「もしもし、菊丸です」
俺は病院内にある公衆電話から会社に電話をした。時間を見ればもう5時を過ぎている。
「大変だったな。さくら苑の長田さんっていう人から事情は聞いた」
支店長に何か言われるのを覚悟して電話をしたけど余程長田さんの根回しが巧妙だったのか支店長は逆にねぎらいの言葉を掛けてくれた。
「俺も数年前に竜野さんを担当した事があってな。今日の事件を聞いて驚いた。でも生きていてくれて良かったな」
「支店長・・・」
「菊丸の体調の方は大丈夫なのか?今日はもういいからそのまま家に帰れ、あんな現場を見たのだから相当ショックだろう。明日も無理そうなら休んでいいぞ。明日1日くらいならなんとかなるからな」
「ありがとうございます。支店長」
長田さんの細かい根回しと支店長の温かい態度に俺は胸が温かくなった。
人は助け合って生きていくものだ。長田さんなんて今日初対面なのにあれこれと世話になった。さすが福祉の仕事をしているだけあって人に対して優しいんだと実感した。
安心したら急に体から力が抜けていった。
安心したけど自殺未遂現場を目撃してしまったショックはまだ残っているみたいで体がだるい。もう今晩かわむら寿司へ行けるような状態ではない。
不二に電話しなくっちゃ。
不二の定時は5時だからもう携帯に掛けても大丈夫な筈。
俺は不二の携帯に電話をしてみた。
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